
錫という素材は、スズ鉱石からつくられるもの。耐蝕性が高いこと、その色合いや光沢、繊細で優しい手触りと風合いなど、錫器は酒器、茶器、花器、神仏具など、さまざまな種類の製品として愛されてきた。薩摩錫器は、鹿児島市に伝わるそれである。今回、PingMagMAKEが訪れたのは、鹿児島市内に店を構える老舗店大辻朝日堂。同店店主の胸にあるのは、伝統を守ると同時に常に新しさを求める近代科学の心である。
取材/鈴木隆文


薩摩地方にこれほど美しい錫器があったんですね。
元々は、鹿児島市内を20キロほど南に行ったところに谷山鉱山という山があったからで、その歴史は江戸時代にまでさかのぼるものです。削面の緻密さや艶消し仕上げや淡い本漆掛けなどが、薩摩銅器の特徴でしょうね。
表面のテクスチャーが何とも言えず美しいですね。
ウチの錫器は、伝統の艶消し仕上げを大切にしていますからね。でも、これが薩摩の錫器かというとそうではないんです。これらは、はっきり言ってしまえば、私の技法になってしまっている。古い技術を土台にしてそれを数値化し最良点を見出して、技法を進化させてきているんですね。


こちらのオリジナルの技法には、たとえばどんなものがありますか?
伝統の艶消し仕上げケミカルなエッチングで鋳込みの金属組織を表に出したものですが、「輝(かがやき)」という技法は、小さな拡散した線カットを施したものです。細かい線の反射がそのままデザインになっているわけです。また、手彫「鎚目(つちめ)」は金属に手彫りを施すという技法を用いた、世界で初めての表現ですね。表面を叩いてつくる技法は銅器や錫器の世界にありましたが、この方法だと叩いた裏側に当て金の受け傷ができてしまいます。でもウチの手彫「鎚目(つちめ)」でやると、その傷が出ない。ほら、これ、内側に削り出しの美しさが残っているでしょ?
伝統の中で大切に守られてきた技法というわけではないのでしょうか?
私が40歳でここに戻ってきたとき、製法は陳腐なもので、私から見たらかなり甘いものでしたからね。だから、これでいいだろうとやっていただろう古い技法は見直す必要があった。例えば、錫を浸ける硝酸でも、温度を測って比重や時間を測ってやるようにした。そうしてモノが出来てみたら、父親は「こんな素晴らしいものはじめてみた」って言ってましたよ。私としたら「そりゃあ、そうでしょ」と思っただけでしたけど(笑)。何しろ、当時ウチにいた職人さんたちの中には、「(いいものがつくれない時に)今日は調子が悪かった」なんてことを平気で口にしていましたから。そんなこと大手メーカーで言ったら、仕事任されないですよ。不良品の山ができてしまう。


大辻さんは、家業を継ぐ前は何をされていたのでしょうか?
私は、車の電装品のメーカーで技術者、そして品質管理の専門家としていたんですよ。近代的で科学的な考え方は、会社で自然に身につけていった。伝統工芸の世界では、一度成功例ができると、それが伝統技術になって固定されてしまうところがある。もちろん世の中も、できあがったものしか見ない。でも、その改善していく過程でどこでどうして生まれたかを見出して、細かく調べて論理立てて、標準化する近代的なものの考え方に置き換えていかなければ、進化は止まってしまうんですね。
子供の頃から、技術者になりたいという想いがあったのでしょうか?
モノをつくっているところを見るのは日常的なことでしたね。私は人間嫌いだったし、鹿児島の言葉で「やせんぼ」って、馬鹿にされていたくらい大人しかった。遊びと言えば、女の子とのママゴトかものづくりだった。でも私には科学がありました。花火の美しさを見るだけではなく、火薬の専門書を読み漁りました。そこには、見る感動とつくる喜びがあったのです。中学生の頃には、ピストルまでつくってしまいましたからね(笑)。だからといって、私は器用なわけではない。火薬を調合中に爆発させて顔と目と髪を全部焼いてしまったりという失敗もあって、試行錯誤が沢山あるわけです。


家業を継いだということは、長男だったのでしょうか?
いいえ。実は私は、四男なんですね。父親は長男に家業を継がせたかった。それで長男を京都工芸に行かせてデザインを学ばせた。ところが戻ってきて仕事をしてみると、先進的なものを学んで帰ってきた兄と、根っからの職人の父では意見が合わずぶつかってしまった。それで長男は役人の道を行くことになった。次男は錫には興味がなくてやらない。三男は甘やかされて育ったから、店を継がせようとしても仕事をしないでさぼってばかりいる。そんな流れがあって、補欠のピンチヒッターだった私が家業を継ぐ背景ができていったわけですね(笑)。
好きな技術者をやめなければならなかったのは、嫌だったのではないでしょうか?
そうですね。でも、私も女房もいつかは生まれ故郷の鹿児島に帰って暮らしたい、そう思っていましたからね。キッカケは、あるとき父に「僕の将来は、この先、分工場の工場長になって終わりなんじゃないかなって」という話をしたんです。そうしてしばらくしたら「お前、戻って来い。こっちも良いものが出来なくて困っているんだ。お前が問題を解決してくれ」って言ってきた。私としては、技術者として生きたかったので管理職なんてつまらん、と。それで丁度いいタイミングだと思ったわけです。


でも、畑の違う世界から急に職人の世界に入ってものづくりをするのは大変だったのではないでしょうか?
色んなことがありましたよ。私が新しいやり方を取り入れようとすると、やっぱり古い職人たちは反発するわけです。彼らの指導のやり方は、鋳物の技術を何年かけて学んで、削りの技術を何年かけて学ぶという、私からするととんでもないやり方。でも、私としたら、1ヶ月でそれをマスターしたいと思っているわけです(笑)。私のマインドは、あくまでも技術者であって職人ではない。理論だけわかれば、それでいいのです。でも、職人は怒ってしまって言う事を聞かない。
それでどうされたんですか?
それが単純なことなんです。彼らの労働環境を良くしてあげた。当時の彼らの労働環境と言ったら、劣悪なもので、旋盤機のモーターの音がもの凄くうるさくて、ラジオも聞けない。加えて、夏は蒸し暑い。そこで取り付け台をつくり直して、防振ゴムをつくり音が静かになるように抑えて、ラジオを聞けるようにしてあげた。それから天井に穴を開けてビルの空気を吹き出させた上に、窓にも換気扇を付けてそこからも空気を出してあげた。そういう細かいことをいくつかしたの。そうしたら、彼ら、「アラッ」って思ったんでしょうね。言う事を聞いてくれるようになったんです(笑)。私の技術力が少しわかったんでしょうね。


新しい技術を伝統に取入れるのは大変だと思いますが、それを次の世代につないでいくのも大変なのでしょうね。
後継者を育てなきゃいけない、ということは自分自身よく考えますし、人からも言われます。だけど、伝統技術というのは、その人ひとりひとりに宿るものであって、伝えきれるものではない。だから、簡単に伝承しきれるものではないんです。伝統技術を進化させて、次につないでいきたいと思ったら、この世界に存在するあらゆるものに興味を持たないといけません。好奇心を持って、科学する心、目的意識を持って取り組んでいかないとけないんです。性根という字句があります。「進んでやり抜こうとする心構え」。情熱と性根を持つ人に全部を継いでいきたい。私はそう思っています。
大辻賢一
1935年、鹿児島市生まれ。

大辻朝日堂
鹿児島県鹿児島市西田2-17-17

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12月31日2008年
科学する心で伝統を見つめる:大辻朝日堂
12月16日2008年
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12月9日2008年
日本人の大切な文化を伝えたい:喜久優
12月2日2008年
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11月25日2008年
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11月18日2008年
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11月11日2008年
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10月28日2008年
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10月21日2008年









掘って鎚目にしあげているのは、叩いて鎚目をいれると地金が伸びてしまうからですか?
Posted by: 竹森翔太 @ 6月18日2010年
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Posted by: christian louboutin @ 11月10日2011年
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