
日本の和紙は、世界中のアーティストや版画家に高い評価を受けている。手づくりならではの感触が、作品に何とも言えない温もりを与えるからだ。そんな背景をふまえ、徳島県にある和紙工房は、アーティストとのコラボレーションに力点を置く。伝統を守るだけでは、世界を相手に戦えない。いかに柔軟に考え、革新的な発想ができるか、それが生き残りのカギとなる。開放感あふれる空間である、この工房には、はてしない可能性が潜んでいる。
取材:クレア田中

藤森さんは、こちらをはじめて何年目になるんですか?
今、61歳。紙を始めたのが22歳ですから、39年間になるね。
大学卒業してから、すぐにこの工房に入られたのですか?
大学時代にはみんな考えるでしょ。就職しようか、家業を引き継ごうか。で、僕も3年生の夏休みに東北の紙漉き場をずっと見学していたんですね。大学は大阪だったけど、「もし徳島へ帰ったら、東北に行く機会はまずないだろう」と思って。自分の家が紙漉きをやっていたから、東北の紙漉き場を見て回ろうと計画した。その時に、紙漉きの状況を知ったんです。ちゃんとできてるところがあれば、できてないところ、もう、ほとんどやめているところもあった。

その旅で人生を左右する出会いがあったのでしょうか?
宮城県白石市というところに遠藤さんという紙漉きがいた。彼の工房を見たときに、自分の紙に関して非常に自身と誇りを持っているな、と感じた。20歳そこそこの若い私を相手にきちっと囲炉裏ばたごしで1時間あまりも説明してくれて。自分の仕事がどうの、紙がどうの。「ああ、こういう風な生き方をすれば、和紙をやっとっても一生の仕事としてやっていける」と思った。それが、徳島に帰ることになったきっかけでした。
家業をやると決めて、一から勉強したのでしょうか?
結局帰ってきても、みんな年が離れていて40から50歳位の先輩だったから、あんまり相談相手はいなかった。それをカバーするのに和紙の古い本をたくさん買って勉強したんです。経営者の息子で、みんなに仕事をしてもらう立場。先輩でよく知ってる人にも「こうしてください」と言わないといけない。だから、キチっとした理論がいる。あと年に1、2回ぐらい、紙の産地へ行って勉強しました。私くらいの年齢の紙漉きっていなかったから、紙を売りに行っても、皆さん、「おいでおいで」って言うよ(笑) ほれで、一所懸命に、「こういう紙作れ」とか「ああいう紙作ったら、あかん」と教えてくれた。当時の一番の問題は、阿波の紙というものを誰も知らなかったことです。

それをどう乗り越えたのですか?
一つの方法としてやったのは、年に一回の研修会。後は、呼ばれて行ったアメリカやヨーロッパなどの海外。道具を携えて、20人ぐらい集めて、1週間位の紙漉きの研修会を開く。それで海外の方に阿波紙を知ってもらった。それを30歳過ぎから10年間位したかな。
国内だけではなく、海外に羽根を伸ばしていったわけですね。
はい。世界戦略で一番楽しいのはね、ひとつは海外旅行ができること。そしてもうひとつは紙漉きを教えに行くと「先生」と呼ばれること(笑)。「日本から英語のしゃべらない先生が来る」といって、誰か通訳をちゃんと用意してくれる。そして、先生になれる。「先生」と呼ばれるのは、一日したらもう、やめれない。「先生」っていいですよ。(笑)

30年前から海外に行っていたんですね。当時と比べて、変ったことはありますか?
環境的には、日本の高度成長が始まって、紙がどんどんと高くなった。為替が変わって360円だったのが260円になって、今はもう110円ぐらい?結局、安かったものが高くなって、和紙が特種な物になった。それで、結局一部のアーティストの紙になってしまった。そうしているうちに、タイの人が和紙に似た物をつくり始めるんです。15年位前でしたね。タイは、和紙の原料である「楮(こうぞ)」の輸出国だったんだけど、「原料だけ日本へ輸出してもあまりお金にならない」ということで、手を加えて紙にして日本へ売りはじめた。ほれで値段が安いから、世界の人の和紙という東洋の紙に対する見方がまた変わったんだね。さらに、インドのハンドメードペーパー。みんな、産地で一丸となって一生懸命作ってますよ。でも、そのおかげで私のする仕事が明確になったんです。日本では日本独自のものを作ろう、と。で、そのひとつが文化財の保存に使うような紙ね。アーティストが使う版画用紙とかインクジェット用紙。それから、自費出版とかレタープレス用の紙ですね。
それで海外の人からアイデアやヒントを受けたりするんですか?
そう。ウチの工房では、ヴィジティングアーティストということをやっているんです。作品づくりを手伝いつつ、作業をすることによって感じたり、技術的なことを勉強したり。やっぱり外からの刺激がないと、身内だけで考えても解決しないですよ。

何か具体的な例はありますか?
例えば、グレゴリー・コルベールさんという写真家の作品。それが3〜5メートルととても大きいんですね。普通だったら「できない」って終わりです。でも、考えて工夫してみた。どうやったらできるかなって。それで結局、重い紙を漉くためにクレーンを使ったんですよ。
この工房が自由でオープンなスペースだからできるのでしょうね。
ここは、平成元年に建てましたから、もう20年になります。ここ一ヶ月は、伝統的な阿波の紙をつくるためには1週間。残りの3週間は、新しい、コンテンポラリーなものをやっている。
伝統をベースにした新しいことというんですかね。阿波の紙ってあまり知られていないから、知ってもらうためにどうしたらいいか、一生懸命やっていた。だから、ずっと伝統的なことばっかりやっていたら、知ってくれる人は少なかったかも分からん。

後継ぎの問題については、どう考えているのでしょうか?
それを言われると辛い。今、私は61歳。本来であれば、もうすでに次の後継者がいないといけない。でも私には娘が3人いて、一番上が結婚して東京に住んでいる。2番目はタイのバンコクで、この秋にアメリカ人と結婚する。一番下は今、神戸ですけど、紙屋の仕事あんまりしたくないようなことを言っている。どうしたらいいんですかね? 子供が後継者になるかならないかは、親の仕事と生活ぶりで決まってくる。たとえば文化的な仕事でどのような評価を得ているか。そして、仕事にどんな満足感を得ているか。親を見れば大体わかる。子供はこれを見ながら、どうするか考えるん違いますか? まあ、経済的なことも考えるのでしょうけどね。
多くの人がここに集まってくるようですが、皆さん、どのようにしてここの存在を知るのでしょうか?
今研修会に参加しているスコットランドの女性は、学校で懸賞をもらって、「そのお金でどこかでワークショップに使いなさい」と。先輩とか先生に相談したら、「ここへ行きなさい」と言われた。20年やってるとそういう口コミが多い。

口コミで広まって20年間ですか。「一期一会」を感じるねぇ。
結局、一生の間に会って、話ができる、目の前を通り過ぎていくだけじゃなしに、立ち止まって話をして、こっちも相手も感動を与えながら過ごす人というのは沢山はいない。きっと100人もいないのかな。そういう意味では、「一期一会」というのは非常にいい言葉だと思う。22歳から仕事を始めて、やっぱりその節目、転機、変わるときには影響を受けた人は何人かいる。ここまで生きてこられたのは、振り返れば、何人か出会いがあった。その時々では、失礼なことを言ったりしたりしたとは思うどけ。
最後に何か言いたいこととかありますか?
最近の伝統産業は、問題がいっぱいある。後継者とか、材料入手難とか、そういう問題がいっぱいある。でも、キチッとした目標を持って、工夫したら、これほど素晴らしい、面白い仕事はない!そう思います。
アワガミファクトリー
徳島県吉野川市山川町川東136

藤森洋一
1947年生まれ。アワガミ・ファクトリー代表理事。紙漉き職人。

3 コメント
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「尊敬」の一言につきる!徳島に今すぐ行きたいっ。
Posted by: rei @ 9月25日2008年
本当に有難うございました。3日にお会い出来るのを楽しみにしており
Posted by: Swing lyrics @ 5月15日2011年
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Posted by: christian louboutin @ 11月10日2011年