
長崎という街で目にするものは、色鮮やかなものが多い。その色合いには、どこか異国情緒が滲んでいる。江戸の国際都市、長崎の色。長崎に生まれ育った者として、感覚に染み込んだ鮮烈な色を頭に想い描き、飽くなき探求を続けてきたひとりの男がいる。凧づくりに一生を捧げる職人の道とは?
取材:鈴木隆文
まずは、長崎凧について教えてください?
長崎凧というのは、何よりもまず喧嘩凧です。とにかく重視されるのは、その動きです。尻尾がなかったり、用いられている糸が、糸にガラスの破片がくっついていているビードロ糸だったりします。もちろん、それは相手の凧を切り落とすためなんです。長崎では、毎年、南西の風が吹く4月になると喧嘩凧の大会が開かれるんです。
喧嘩凧とは過激な響きですね。この凧は長崎で生まれた凧なんですか?
長崎凧の起源は、インドやパキスタン辺りから入ってきたものです。東インド会社があった時代に、オランダ船に乗っていた人たちが、あちらでインディアンファイターとして知られるものを長崎に持ち込んだんです。彼らは、南西の風が吹く頃、長崎の出島に貿易船で入ってきた。そして、商人が商談をしている間、出航するまでに時間があった。その間、暇になるわけです。その余暇に揚げたのが、長崎の凧揚げなんですよ。だから、普通、凧揚げは正月にするのものだけど、長崎では北風が南西の風に変る頃にあげるのが習わしなんです。
それにしても、どれも驚くほどシンプルかつ斬新なデザインに仕上げられていますね。
100m上空で凧を喧嘩させるんですから、遠くから見て、自分と相手の凧の見分けがつかなくちゃいけない。だから、図柄が単純なんです。基本的には、色は三色。これはオランダの国旗の色が元なのでしょう。この図柄というのは基本的にはあちらから伝わってきたものだと考えられているから。だから斬新に映るのかもしれないね。
小川さんは、ずっと凧づくり一筋の道を歩まれているのですか?
いや、元々、私は、しばらくの間、東京の巣鴨に住んでいて、清水建設に勤めていたんです。給料もすごく良かった。ところが、父親が、被爆していたので癌になってしまった。それで、継ぐ者がいないということで、私がやることになったんです。とは言え、当時、この店はとても凧だけでは食べていける状況ではなかったんです。だから、急遽、東京から長崎に戻ることになって、生活は天国から地獄ですよ(笑)。
でも、今は、凧だけで生計を立てているんですよね?
はい。でも、凧一本でやっていけるようになったのは、随分後のことですよ。平成になる前、1989年頃だったかな。それまでは、土方しながら二足の草蛙です。朝早くに建築現場に出かけて、夕方から家で凧づくりをする厳しい生活です。父の「ウチの凧を絶やすな」という想いがありましたから必死にやったね。そうしているうちに年々、売上げが増えていったからね。これなら思い切って長崎凧の資料館をやろうと、銀行にお金を借りて、ここを建てたんです。
二足の草蛙で凧店を立て直すなんて、なかなかできることではないですね。
秘訣は、ただ一生懸命、真面目にやってきたということです。朝から晩まで、ほとんどの時間、手を動かしていますから。夜、スナックで飲み歩くなんてこともしなかったし、東京のデパートで開催される物産展に参加するときだって、夜、飲んだくれるなんてことはなかった。デパートなんか行くと、右から左、みんな女の子ばかりで舞い上がっちゃうんだけどね(笑)。そこで間違いを起しちゃいけん。長崎の恥になる(笑)。「飲む、打つ、買う」の三悪に溺れちゃ駄目なんです。まあ、思い切ってそれを体験することも、大切なんでしょうけど(笑)。

凧づくりはお父さまに学ばれたのですか?
うーん。父親は、病気でしたからね。それで、父親が取ったやり方というのは、とにかく私に数をこなさせるということ。「辛抱強く、真面目にやりなさい。そうすれば覚える。そうすれば上手くいく」と。父は私が骨を削るのを見て「上手くないな」と思っていたようです。当時、私は素人でしたから当たり前なんですけど。だから、技を学んだとは言えないな。
では、凧づくりを探求していく中で難しかった点はどこですか?
それは、何よりも色でしょうね。父は骨は組んでましたけど、着色された紙を大きな凧屋さんから分けてもらって、張っていましたから。だから、私は完全に手探りで色を出さなければいけなかった。もちろん、その大きな凧屋さんは、色の出し方なんか教えてくれません。だから、どの位の粉に何リットルの水を入れればいいのか、実験し続けた。粉が顔中について、真っ赤になったり、真っ青になったり、高い紙や染料を無駄にしながらやったけど、さっぱり分からなかった(笑)。

今のような鮮やかな色を出すための実験ですね。
今のこの鮮やかな色が安定して出せるようになったのは、ここ4、5年。はじめてから約30年は経っています。赤は酸性染料だからまだ染めやすいんです。でも、青はインキ性染料だから空気に触れると化学反応を起して酸化しちゃう。私が頭に想い描く「青」は、濃厚で深い青、長崎ブルーです。ところが、単純に、染料を多くすればいいというわけでもない。逆に化学反応が起きやすくなってしまう。塗った後すぐはいいんですけど、乾いたのを見ると色が微妙に変化してしまっている。それ見て落ち込んで青ざめて、自分の顔の方が凧よりも青くなってしまったこともありました(笑)。
繊細な作業なんですね。それにしても頭に浮かぶ色を求めて30年間も格闘するとは、凄い執念ですね!
長崎大学の化学の先生にも助言をお願いしたんですけど、やっぱり「青は難しいよ」と言われたんです。それでも諦めなかったのは、やっぱり生まれたときから凧屋ですから、凧屋の意地というものがある。目標とする大きな店に追いつけ追い越せでやってきたわけです。でも、実験しているうちはお金にはならないんだけどね(笑)。

それでも続けてこられて、遂には、この鮮やかな「長崎ブルー」をひとりの力で実現しているところに小川さんの偉大さを感じます。
何言ってるの!実際の凧職人は私、ひとりだけど、ひとりだけでやってきたわけじゃないんだよ。家族だったり、近所の人だったり、友達だったり、お客さんだったり。苦しいときに話を聞いてくれたり、手伝ってくれたり、御飯に連れていってくれたり、まわりにそういう人たちがいたからこそ出来たんだよ。何にだって感謝は忘れちゃいけないんだ。感謝がなかったら、まずどんなことだって続いていかんよ。全てそうさ。
小川凧店
長崎県長崎市風頭町11-2

小川暁博
1949年、長崎市生まれ。凧職人

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