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技とデザインとアクリル:ひょうどう工芸

6月10日2008年 カテゴリー: ビジネス, プロジェクト, 意匠

技とデザインとアクリル:ひょうどう工芸

アクリル加工の技術を用いて、新しく美しいフォルムを紡ぎ出す男がいる。「高い技術と美しいデザインは、どうすれば調和するか?」 という普遍的なテーマを、最も原始的かつ最も先端的なやり方で実践するグループ、現代手工業乃党の党首でもある。職人とデザイナーを兼ねる仕事は、いかにしてカタチにされたのか?

取材:鈴木隆文、鳥越寛子

MAXRAYで商品化されたひょうどう氏の作品『garnish』。以前は、受注生産していたもの

アクリル加工には必要不可欠

現代手工業乃党は、職人の技術を持った人がデザインもするという、珍しい仕事の仕方をする人の集まりですね。

はい。でも、100年前では、それがつくり手の人にとっては当たり前のことだったと思うんですよ。詳しくは、発起人の清水薫さんに聞いてもらえたらと思うんですけど(次週、記事掲載予定)、そういう僕らを必要としてくれる人たちにアピールして、知ってもらう、それがこの党の目的のひとつですね。でも、これは、単に、集まりであって、誰かの会社ではありません。ウチの会社は、アクリル加工を中心とする「有限会社ひょうどう工芸」です。

「ひょうどう工芸」はどのようにはじまった会社なのでしょう?

元々は、僕の伯父さんがアクリル加工業をやっていて、僕の親父がパートナーとして呼ばれたんですよ。親父はそこで10年間勤めた後で独立したんです。僕が、親父の仕事を手伝いはじめたばかりの頃は、ディスプレイとか、舞台小物とか、広告用小物とか道具とか、テレビ局の仕事とかモデルルームの看板とか下請け仕事をやってましたね。

色のサンプル。工場は、コンパクトで機能性が高いように感じられた

お父さんと一緒に仕事をしはじめたのは、いくつの頃だったのでしょう?

23歳位でした。当時の僕は、最初の会社勤めが続かず、1年間位、僕まともに働いていないんです。親元にいながら、冷ややかな目を浴びつつ、ときどきバイトという生活です。今で言うニートに近い。お金はなくても時間はあったのでリフティングばかりしてましたね。だから、僕、サッカー部でもないのにリフティング、割りと上手いですよ(笑)。

アクリル加工の仕事をはじめたのは、その流れなのでしょうか?

父親としてみれば、いい歳した自分の息子が隣でプラプラしてたら面白くない。で、親心で僕を仕事に入れてくれたんです。特に、大忙しだったというわけでもないのに。

高い精度でカットすることが、職人の腕の見せどころ

それまではものづくりに興味はなかったのでしょうか?

僕は元々、デザイン系の専門学校も出てますし、ものづくりやデザインというものは好きだったんです。でも、ある仕事でつながった子が、展示会やろうって誘ってくれても、その頃の僕は「いやいや恥ずかしいよ」って感じです。でも、巻き込まれて、展示会をやることになった(笑)。そしたら、その誘ってくれた子が、「どうせなら作品に値段つけよう!」って、言い出すんです。僕としては、「とんでもない!」って、感じだったんですけど、結局、一生懸命、相場とか考えて、値段を付けたんです。セルフプロデュースですよね。そしたら、それが売れた。それで、楽しいなあって、ちょっと目覚めたわけです。

そこから、ものづくりに対する姿勢が変わったのですね。

その子には感謝してます。それと、丁度その頃、「東京で加工業をやる意味」というのを考えてみたんです。東京には、他の工場もあるし、情報も多い、ということはいろいろなことが共有できる。とすると、下請け仕事ばかりではなく、デザインや付加価値あるものづくりというやり方にシフトチェンジをしないといけないんじゃないか、と。



そこから、今のようなデザイン性の高いものづくりをするようになったのでしょうか?

とは言え、デザインを含んだつくる仕事を受けるには、デザイン事務所で勤めた経歴なんかのバックグラウンドが必要です。でも、僕にはない。だから当時は、とにかく、カフェなんかで、自分の作品を展示して、多くの人に見てもらおうと思ったんです。そこで興味を持ってもらって、「じゃあ、お前に任せるから」って、仕事をもらう。そしたら赤字にならないように、目一杯格好いいものつくって、写真にとって、ポートフォリオに加える。最初は、10万円の仕事、次は30万円、次は50万円という具合に、ちょっとずつですけど、自分の仕事の価値を高めていったんですよ。もう、わらしべ長者ですよね(笑)。

でも、その頃は、業者さんからの下請けが中心だったわけですよね?

そうです。その頃は、まだ90%は下請け仕事で、10%が僕のお金にならないデザインを含んだ仕事。それを、ちょっとずつデザインを含めた仕事を増やす方向に移行させてきたんです。でも、大きく変わったのは、親父が看板を取り付ける作業中に、ハシゴから落ちて大怪我して、半年間入院してからですね。父がいない隙に、僕がやり方をだいぶ変えてしまいましたから(笑)。

『OOPARTS(Out Of Place Artifacts)/場違いな工芸品』



変えてしまったと言いますと?

親父のお客さんに「すいません。今は仕事できません」って謝って、「どうしてくれるんだよ」って怒鳴られながら、それでも下請け的な仕事を断るようにした。どうしてかというと、父親は傷害保険にひとつも入ってなかったんです(笑)。で、僕が、親父のとこと僕の家族、2家族を食べさせなきゃいけなくなった。そうなると、極端な話、どうにかして24時間働ける環境が必要になります。でも、親父の顧客が必要とするのは、工場での加工仕事。つまり、夜中できない仕事です。夜も働ける仕事と言えば、デザインです。だから、つくっても、デザインしてもお金になる仕事を受注をしたかった。だから、下請け的な仕事を断った。そこからは、もう怒濤の営業ですよね。「こういうのやりたいんで、やらしてくれ!」って。

そうやって、付加価値の付いた、デザイン性の高い仕事をメインにされるようになったわけですね。

父親は「(お前がデザインの仕事もできるのは)オレがはしごから落ちたお陰だ」とか冗談を言いますけど、本気で腹立ちますね(笑)。でも、そこで、社会との関わりを真剣に考えたのは本当です。自分が持ってる技術と頭の中をどう人に訴えて、食っていくかって。他人は助けてはくれても、守ってはくれない。それを強く感じましたね。仕事を選ぶ自由もあるけど、間違えたら餓死する自由にもなる。そういう意味では、今もドキドキ(笑)。


1本のアクリルの角柱から削り出された、鎖のオブジェ


雑誌『voce』のために製作したトロフィー



こちらは、父・俵藤益仁さんが、息子に負けじと、自主製作し、販売する、デザイン性の高い照明。非常に高い技術が活かされているのがわかる

なるほど(笑)。では、最後になりますが、今後のことについて教えてください。

ヨーロッパなんかの、世界的にブランド力のある企業は職人さんをブレインとして使っている。僕は、そういうことを日本をベースにできたらと思っています。日本の企業としたものづくりが、いずれブランドになって、世界に認めてもらえたら、きっと楽しいでしょうね。

ひょうどう工芸
東京都港区白金6-2-17

俵藤ひでと
1972年、東京生まれ。アクリル職人/デザイナー。㈲ひょうどう工芸取締役。現代手工業乃党・現党首。

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