Quantcast

片田舎に義肢装具事業を興した男 ー 中村ブレイス社長・中村俊郎

12月7日2007年 カテゴリー: ビジネス, プロジェクト, 国内, 製品

片田舎に義肢装具事業を興した男 ー 中村ブレイス社長・中村俊郎

山間の小さな街、大田市大森。ここは、中世期、ヨーロッパにも知られた銀山を有する土地です。2007年、世界遺産にも登録された石見銀山です。その立役者、中村俊郎氏は現代に生きる偉人のひとり。彼は偉業をふたつ成しています。ひとつ目は銀山の世界遺産登録、ふたつ目は優れた義肢装具の製作です。一代でふたつの大業を成した現代の偉人は、一体何をどう感じながら生きてきたのでしょう。

取材:鈴木隆文

広々とした作業現場では、さまざまな作業が同時に行われている

この道に入るには、大きな志があったのでしょうか?

元々、私がこの仕事をはじめたのは、ただ単に生きていくためでした。取り立てて、社会貢献にするためとか、学校で技術を修得していたとか、最初からこの分野で一旗あげるとかいう野望があったからではありません。これからどうやって生きていったらいいかを考え、自然に流れついた場所でした。

最初に義肢装具についてを学んだのはどこだったのでしょう?

実姉の紹介で 京都にある老舗の義肢装具製作所に勤めはじめたのは、高校を卒業した後。約6年間勤めて、そこで義肢製作技術の基礎を学んだのです。最初に、その義肢装具屋を訪れたとき、工房の外に義肢装具が天干されて並べてあって、「ああ、これは興味深い世界に入ってきたな」、そう思いました。教科書やマニュアル本のようなものは一切なく、先輩たちの仕事を見て真似しながら覚えていきました。


神経を研澄ませて作業に取り組むスタッフ

スタッフ、ひとりひとりが熟練の技を持つ

そんな中、渡米を思い立ったのには、どのような理由があったのですか?

その頃、同時に、もっと良いもの、新しいものをつくりたいという探究心も芽生えはじめてきていたからです。そうすると、先進国のアメリカに留学したいという気持ちも自然に沸いてきます。そして、アメリカに留学、モダン・オーソペディック社で研修し、カリフォルニア大学でも学ぶことになったのです。

そこで印象に残ったものはどんなことでしたか?

カリフォルニアのキャンプベルという田舎町にあったホズマという企業の存在でした。ホズマというのは義足メーカーで、当時は、世界でも一、二位を競う優秀なメーカーでした。そのとき、私が思ったのは、「この仕事は、こんな田舎でも商売ができるんだ」ということでした。それ以外にも、気持ちの上で大きな転機となった事件がありました。瀕死の重傷を負う大きな事故をしたのです。目が覚めたら、霊安室に寝かされていたほどの、大きな事故でした。一度、失いかけた命です。自分が修得してきた技術と知識を捧げることはできないか、そのときはじめて決意をしたのです。日本に帰ったら、生まれた故郷に戻って、義肢装具の仕事をしよう、と。


足のモデルなどが積まれる棚

義足の肢体の部位

「帰国してみると故郷が寂れて見えた」そう発言していますね?

はい。それでも、私は、父からマルコポーロの話を何度も聞かされていたために、石見銀山のあるこの地が、中世の時代には、20万人の人口を誇った大きな街だったことも知っていました。「石見の銀は、中世に欧州を巡りました。銀山から世界を考えろ」という父の口ぐせがあったからこそ頑張れたのだと思います。

田舎での義肢装具屋の創業というのは、いかにも難しそうな仕事ですが、どんな気持ちで立ち向かったのでしょう?

「できない」というのは、みんな頭の中で思っているだけで、本当にそうなのかどうかは、やってみないとわからない。私は、この仕事を通じて、そんなものの見方にも挑戦したかったのです。最初は、掘建て小屋のようなところではじめたのが最初でした。実家の納屋を改装し、ひとりで仕事をはじめたのです。はじめてしばらくは、町の人たちは、「こんなド田舎で商売ができるわけがない」と考えていたみたいです。でも、私には、アメリカのシリコンバレーで成功している世界企業を見てきた経験がありましたから、絶対できると信じていたのです。


衛生面にも配慮が行き届いている

作業場には、こうした光景があらゆるところに見られる

でも田舎でどうやって仕事を広げていったのですか?

最初に、仕事をくれたのは伯父でした。彼から、腰が痛いからコルセットをつくってほしいと頼まれました。ひとりのお客さんの要望を聞いて、次に別のお客さんの要望を聞く、そして、お客さんの数が、ひとりがふたり、ふたりが三人という具合にビジネスとして広がっていくわけです。信頼をひとつひとつ積み重ねていくと、病院の先生が、次の先生を紹介してくれるのですね。そんな風に口コミで仕事を広げていくうちに、どんどんと取引先が増えていったわけです。

ところで、2007年の石見銀山の世界遺産への登録も、中村社長の存在なしにはありえなかったと、多くの人が語っています。

世界遺産登録に力を注いできたのも、この大森を復興させたいと思ったからです。新築も含め古民家を30軒ほど自費購入して、修繕し、社員寮や工場などにも活用しています。もちろん、そこに注ぎ込んだ額は、何億という額になります。でも、それらが町のためになればそれでいいと思っています。

かつてたった一人ではじめた会社とは思えないほど、スタッフに恵まれ、設備は整えられている

あなたの会社が掲げる「メディカルアート」というユニークな概念についてお聞かせください。

メディカルアートとは、義肢製作の考え方にアートの視点を取り入れた、新しい考え方です。できるかぎりリアルに美しくする。使う人の身にたって、喜ばれるものをつくっていくポリシーから生まれた概念です。乳がん術後の補正用人工乳房「ビビファイ」はオーダーメイドの人工乳房です。値段の安いレディメイド(既製品)の人工乳房もあるのですが、多くの人は、世界でたったひとつのおっぱい、つまり自分が持っていたのと同じおっぱいを求めます。人体の一部をひとつひとつ手作りでリアルに再現していくのは、機械による技術ではなく、人の手による技術です。欠損部周辺の身体測定からはじまり、型おこし、着色、植毛などの地道な作業を繰り返します。その結果として、手触りの感触、血管、体毛、肌の色合い、などが微細に表現されるようになるわけです。「美しさ」と「機能性」という2要素の理想的な融合をどこまでも追求することが、メディカルアートです。私たちの会社のスタッフたちは、そのために日夜研究を続けているのですよ。

凄い運とバイタリティーをお持ちだったのでしょうね?

中村ブレイスの「ブレイス」というのは、支えるという意味です。これには、障害者の人を支えるという意味や、社会を支えるという意味、それから地域を支えるという意味を込めています。私は、ただ人のためになる仕事をやってきたにすぎないんですよ。神仏が守ってくれたのでしょう。

人の心を癒してくれる義肢装具の力は、理屈や数値でははかることができないもの

中村ブレイス
島根県大田市大森町ハ132

中村俊郎
1948年生まれ。中村ブレイス株式会社代表取締役社長。

2 コメント

  1. This is great post! Tnx for sharing.

    Posted by: Swing lyrics @ 5月20日2011年

  2. Howdy vso software convertxtodvd crack really article vso software convertxtodvd freeware for PingMag MAKE - 日本発ものづくりインタビュー・マガジン » Archive » 片田舎に義肢装具事業を興した男 ー 中村ブレイス社長・中村俊郎

    Posted by: click this @ 2月3日2012年

  • Share and Enjoy:
  • Digg
  • del.icio.us
  • Fark
  • NewsVine
  • RawSugar
  • Reddit
  • YahooMyWeb
以前の記事